【冒頭・注意書き】
※この記事は、わざときつめの言葉を使ってます。
ちょっと笑えて、でも「あるある」と感じる人がいたら嬉しい。
言葉は尖ってても、刺したいのは人じゃなくて、”視線の無自覚さ”だけです。^^
「見てくんじゃねぇよ」って言ったこと、ありますか?
私はあります。数えきれないほど。笑
でも別に、目立ちたくて言ってるわけじゃないんです。
むしろ、“見られたくない側”なんです。
このテーマを書くきっかけになったのは、あるnoteの記事でした。
男性が書いた話で、こんな内容でした。
「すれ違いざま、知らない女性から“用もないのに見てくんじゃねぇよ!”と怒鳴られた。正直、ショックだった。あとで冷静になって考えたら、その女は幼稚だなとも思った。」
でもその男性は「まあ、これまで見られてきて、たまたま俺で爆発したんだろう」と受け止めていたんですが――
そのあとの言い分が、なんともモヤモヤしたんです。
「だって人の顔を見ないと意思が分からないでしょ?道でぶつからないようにするには、顔を確認する必要があると思うんだよね」
…え? 渋谷のスクランブル交差点ですら、顔なんか見なくてもスイスイすり抜けれるけど?
この、“見てもいい理由探し”が、言い訳にしか聞こえなくて。
見てくる側の「正当化」にモノ申したくなったんです。
実は昔(田舎から大阪のド真ん中に出たばかり)の私は、「見られたい側」でした。
派手な格好をして、視線を浴びて、それが“可愛い”の証拠だと思ってた。
でもいろんな大人と接していくうちに、
人が人をどんな目で見ているかが手に取るようにわかるようになった。
そうして初めて、
「用もないのに見てくる人」の視線を、気持ち悪いと感じるようになったんです。
たとえば。
・電車に乗ると、男たちの目が一斉にこっちへ向く。でも年配女性には無反応。
・歩いていると、自転車で後ろからきた男がわざわざ顔を覗き込んでくる。でも私の前を歩く年配の女性はスルー。
・「5万でどう?」なんて声をかけてくる男。
・「かわいくねーし!」って、通りすがりに嫉妬をぶつけてくる女。(ここだけ女登場。笑)
一度や二度どころではではないですよ。
ただ見てるだけに見せかけて、そこにあるのは下心や欲望、感情なんですよ。
だから私は、こう言うようになったんです。
「見てくんじゃねぇよ。」
ただ怒ってるんじゃない。
教えてるんです。
“こっそり見てるつもりかもしれないけど、見てることは全部バレてるんだよ”
“見ようとしてる意図も分かってるんだよ。恥を知れ!”
“誰かが言わないと、見てくる側はバレてないつもりで生きてるから、そこ訂正しなきゃなんないの!”
(ちなみに私が無感情だった時代は、嫌だなと思いつつもスルーできていました。
怒りに変わったのは20代後半でしたね。)
昔にしていた仕事のせいもあるのか、
見てくる人にはいつも、『欲望(顔を見たい)を晴らしたいなら金を払え』と思っていました。
『タダで欲望を晴らそうとしてんじゃねぇよ』と。
その浅ましさが、なんとも気持ち悪いのなんの。
もちろん、言われた側は嫌な気持ちになるでしょう。
でも、それでいいんです。
むしろ、それが狙い。
だって、次からは慎重になるから。
「またあの時みたいに言われるかも」って思って、一瞬でも踏みとどまりやすくなる。
それが抑止になるんです。
よく、無視が一番と大衆は言うけれど、それは、ただのその場しのぎなだけ。
自分さえ安全だったらいいだけ。
もちろん時としてそれは有効な場合もあるけど、
そのスタンスでは、なんの解決にもならない。
一人一人と地道にはなるけど、“無意味に見る”って、やっちゃいけないことなんだよってことを教え、モラルある社会になってほしいだけ。
見られる側は頭から火山噴火。
おかげで私は早いうちから眉間にシワが刻み込まれましたが。笑
ちなみにこれで、マスクで顔を隠す防衛策も思いつきました。
でもこれね、あんまり人から見られにくい人にしたら、「自慢」に聞こえるみたいなんです。
こちらとしては全くそんな意図はなく、ただただ心の悲痛な叫びのつもりなんですが。
だから私は、初めは愚痴を聞いてもらっているつもりだったけど、それに気がついてからは人に言わなくなりました。
その怒りの矛先はなく、自分の中だけで消化しなくてはならないのは、なかなかきつかったです。
視線って、“ただの視線”じゃありません。
受け取る側には、歴史と蓄積がある。
見抜く目もある。
それを、“俺の視線は正当”だと決めつけてる人にこそ、私は言いたい。
「見てくんじゃねぇよ。」と。
ということで、見られやすい人には、「わかる…!」と共感してもらえたら嬉しいし、
そして、人を平気で見る人には、「見るとこんなふうに思われることもあるんだな」と気づいてもらえたら、もっと嬉しいです。
ありがとうございました。