【見てくる人の心理と、見られる人の心理】〜見られ慣れてない人ほど、他人を見る〜




はじめに

なぜ、通りすがりの他人の顔をそんなにじっと見るのか?

見てくるその目には、欲望・比較・コンプレックスがにじみ出ています。

それは無意識なのかもしれません。

しかし、だからこそ悪質でもあります。

人は経験によって、人の視線に含まれる「下心」や

「嫉妬心」みたいなものを敏感に感じ取るようになります。

男性の視線:好みの判定装置

まず男性。

通りすがりの女性の顔や体型を見て、「好みかどうか」を反射的に判断してきます。

多くの場合、その人に話しかけるわけでもなければ覚えているわけでもない。

一瞬で”自分の中の基準”に照らしてジャッジし、

まず確認できたことに満足し、

そして相手が自分好みなら、

よりいっそう満足します。

おそらく彼らの多くは、自分自身が「見られる存在」であったことがないはずです。

だからこっそり見たつもりでも、

相手にはそれがバレています。

そして、気持ち悪いと思われてしまうのです。




女性の視線:比較と安心のツール

一方で女性。

同性の顔を見てくるとき、

彼女たちは「自分より可愛いか、綺麗かどうか」を

測っています。(まれに、体型に見惚れているだけのような憧れ目線の女性もいますが。)

無意識にでも、

自分の立ち位置を確認したくてたまらない。

そして「勝った」と思いたいし、

「負けた」と思いたくないのです。

彼女たちは「負けた」と感じると

一気に心が嫉妬心で支配されます。

そう、憧れではなく、嫉妬なんです。

そういう女性は、人から視線が欲しくても、

もらえない。

だから結局これも、こっそり見ているつもりでもバレバレということに気がつかないのです。

そして、見られる側の負荷に対する想像力すら育たないのです。




見られるということは、ただの出来事ではない。

彼らは「ただ見てるだけ」「目が合っただけ」と言うけれど、その視線には彼らが思っている以上に多くの”情報”と”圧”が含まれています。

でもそれは、見られる経験がない人たちには、

一生気づかれないままかもしれません。

なぜなら見てくる人ほど、

”自分が見られていない”という前提を無意識に生きているからです。

見られる側からすると、「自分は見せ物じゃない」「他人を使ってタダで欲望を叶えようとするな」

と感じ、心穏やかではありませんから。

見られ慣れている人は、気づいている。

見られやすい人」には、ある種の”嗅覚”が育ちます。

あの人は見てきそう、あの角度から視線が来そう、など

相手はこちらに気づかれていないつもりでも、

なんとなくわかってしまいます。

というか、本当にバレバレなんです。

視界に映り込んでくる顔の角度、

身体のわずかな動きや雰囲気で、

「見られてる」ってすぐに察知されてしまいます。

本人は「こっそり見てるつもり」かもしれないけど、

よく見られる人は、その”こっそり”にも長けているのです。




だから見られやすい人は、他人の顔を無意味に見ない。

そして興味深いことに、よく見られる人ほど、

他人の顔を無意味に見たりしません

なぜなら、”視線”が与える圧”や、

”不意に晒される不快感”を知っているから。

繰り返しになりますが、見られる側は、

「自分は見せ物じゃない」、

「他人を使ってタダで欲望を叶えようとするな」

と感じています。

だからよく他人から見られやすい人は、

人の顔をじっと見ることが相手にどう伝わるか、

どう影響を与えるかを理解しているからこそ、

安易に人を見ません

見られる経験が少ない人は、

視線を投げることの意味を軽く見がちですが、

見られ慣れている人は、その視線の一つひとつが、

相手の心を揺らすことをよく知っています。

だからこそ、視線を慎む

それが相手に悪いと理解しているから。

そして自分自身も、そういう軽率な視線に堕ちたくないからなのです。

さいごに:視線の責任を知っているか

結局のところ、視線というのは思っている以上に力を持っています。

それを扱い慣れていない人ほど無頓着で、無自覚で、残酷です。

けれど、よく見られてきた人たちは知っています。

視線は、”ただの行為”ではなく、”相手の存在に触れること”だということを。

だから軽はずみに人を見ない。

見られやすい人はマスクではなく、サングラスで心の平穏を保ってください。

見てくる人たちは、目を見てきますから。

顔を想像して欲を晴らすために。



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