感じすぎる私が”何も感じない”を選んだ理由とその代償。そして、「手放したこと」ーー繊細な感性と共に生きる、静かな覚悟の話




1.ちょっとした違和感は、
小さな頃から始まっていた

私は小さな頃から、まわりの人たちとは少し違う感覚を持っていました。
自分では当たり前だと思っていたことが、実は特別だったと気づくのは、もう少し大きくなってからのこと。

たとえば、小学生の頃。私は「誰に何をどこまで話したか」を細かく覚えていました。だけど、まわりの友達は「あれ?これって言ったっけ?」とよく忘れてしまっていました。私はいつも「どうして忘れてしまうの?」と不思議に思っていました。

また、友達が何気なく話す内容も、その背景にある気持ちまでスッと入ってきて、まるで自分が同じ体験をしているかのように感じることができました。
それは会話を楽しくしてくれる感覚で、私はきっとそのことで信頼されていたんだと思います。

だからこそ、数は少なくても深くつながれるコアな友達ができることが多かったし、人の話をただ聞いているだけで、自然と心を開いてもらえるようなこともありました。

2.「普通になりたい」と願ってしまったきっかけ

そんなふうに人の感情をリアルに感じ取る力は、日常の中では心を豊かにしてくれるものでした。
けれど、それが映画やドラマ、アニメなどの“変えられない物語”に触れたとき、私は大きな壁にぶつかったのです。

登場人物が苦しんでいると、まるで私自身が苦しんでいるように感じてしまう。でも、画面の中の出来事には、何もしてあげられない。手を伸ばすことも、結末を変えることもできない。
その「何もできない」もどかしさが、私にはとてもつらかった。

そして私は思ってしまいました。
「私も、もっと普通になれたらいいのに。」

3.「感じない」ことを選んだ代償と、感情が戻るまで

小学校の後半頃から、私は少しずつ「何も感じない」練習をし始めました。
感情を閉じ、心を守る。そんな生き方を少しずつ覚えていったのです。

しかし、その代償は大きかった。
いつしか人と、“普通の会話”ができなくなってしまっていたのです。

何を聞いても心が動かず、「へぇ」としか思えず、良いレスポンスができない。相手がどんな話をしても、それを膨らませることも掘り下げることもできなくて、会話が全く弾まない。相手に興味を持ちたいのに、まるで脳がストップしてしまったかのように、次の言葉が何にも思い浮かばないのです。

そして、なんとか話しても空回り。言葉の選び方も反応の仕方も不自然で、「返し、なんか変じゃない?」って言われたことも一度や二度じゃありませんでした。
それでもあきらめたくなくて、人が集まる場所に勇気を出して足を運んだり、本屋で「会話術」や「コミュニケーション力を上げる方法」といった本をたくさん読み漁ったりしました。

けれど、どれだけ頑張っても、全くうまくいかない。
20年近く努力してきたことに、何ひとつ“できるようになった”とは言えなかった

4.諦める。いや、手放す。

そんなまま、私は30歳を過ぎることになりました。
数字の効果は大きいですね。20代から30代に変わるタイミングって、30代が40代に変わるインパクトより大きい。そのため、30歳になった私は、残された時間の貴重さに気がつくことができました。
そしてそこでやっと、「無理はしなくてもいい」という選択肢を自分に許すことがでたのです。

だから、「これからは苦手なことを克服しようとするよりも、好きなことや得意なことに注力していこう」と考えられるようになりました。
もちろん、これまで納得のいくまで努力してきた、やり切った、という感覚があったからこそです。

5.感情を取り戻す

“何も感じない”ようにしていた時期でも、すべてが空っぽだったわけじゃありません。
恋をすることもあったし、心から打ち解けられる人もいました。
それでも、心の多くの部分はずっと無風のようで、怒りすら湧かないほど、感情は静かに凍っていました。

でも、私は思ったんです。
「また感情を取り戻したい」「人間らしくなりたい」――そう強く願ったからこそ、少しずつ変化が訪れました。

そしてある日、小さな「怒り」を感じたとき――それが、とても嬉しかったのを覚えています。
「あ、わたし、今ちゃんと感情を持てたんだ」って。
怒りは一次感情と言います。
怒りの感情は、私にとって感情を取り戻した始まりでした。

6.確立した、人との距離感

今の私は、もう無理をしません。
広く浅く関わるよりも、本当に信頼できる人と、深く静かにつながっていければそれでいい。

「大人になると友達ができない」とはよく聞きますが、きっとこれは言葉通りの意味ではないと思っています。友達ができない、というよりは、価値観の合う人がいれば仲良くしたい、くらいの感覚なんでしょう。だから、友人と会うのだって、学生の頃みたいな付き合い方はできないし好みではなくなる。そんなに多くの時間そそこばかりに費やしたくなくなる。みんなそれぞれ優先することがあるのだから。近場の友人ですら、年に1度くらいお茶できたらいいくらいではないか。

多くの人はたくさんの経験を重ねていくうちに、そういう思考になっていくのだと思います。

おわりに

もしあなたも、似たような感覚を持っているのなら、まわりと違う自分に戸惑っているのなら、無理に「普通」になろうとしなくて大丈夫です。

あなたが感じていることは、誰かの心に深く届く力。
だからこそ、そのままのあなたでいてほしい。

「感じすぎる」ことは、あなたの弱さじゃない。
それは、あなたの大切な強さなんですから。



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA