妊娠体験談①|初めての妊娠と悲しかった1度目の流産の話





2024年、私は初めての妊娠を経験し、そして流産しました。
この体験が、同じように不安を抱える方の参考になればと思い、この記事を書きます。
2024年8月1日は、私の最初の赤ちゃんの命日でもあり誕生日です。



初!妊娠発覚。

2024年6月末(当時39歳)

彼と同棲を始めて約2ヶ月が経った頃のことです。

生理が少し遅れていましたが、これまで妊娠経験がなかった私は、「自分は妊娠しにくいのだろう」と勝手に思い込んでいました。そのため、生理の遅れがまさか妊娠の兆候だとは全く気づきませんでした。

妊娠を意識したのは、生理の遅れから約10日後、毎朝すごい眠気に襲われることに気づいた時です。

もしかして…?

その後、たまたま知り合いから妊娠検査薬をもらえたので、試すとすぐに濃い陽性反応が出ました。

本当に妊娠だった..!!

「そういえば、この間電車でひどい吐き気に襲われたのはつわりだったのかも。あの日も強い睡魔に襲われていたなぁ」と、その時の体調を振り返りました。

私の生理周期はほぼ30日ぴったりのサイクルで、生理開始からちょうど7日間で完結します。
日常生活は運動量が多い方で、移動は徒歩や自転車中心。徒歩なら1日5時間歩くのも平気、片道1時間の自転車移動も苦になりません。

妊娠したかと思われる期間も、7月の蒸し暑い中、毎週末に2〜3時間の登山をしたり、1日かけて散策したり、電車に乗り遅れそうなときには全力で走ったりしていました。

それでも着床してくれた赤ちゃん。「運動が好きな元気な子なんだ」と思え、自然と嬉しい気持ちになりました。



初めての産婦人科受診

ウキウキとした気持ちで産婦人科に行き、診察を受けました。

しかし、先生の言葉に心は一気に暗くなりました。

「赤ちゃんが見えませんね…」

胎嚢は確認できたものの、胎芽はまだ確認できませんでした。

「稽留流産の可能性もあります…」

ショックでした。

妊娠すれば当然のように出産まで進むものだと思い込んでいました。

この時、初めて知ったのです。

「妊娠は一筋縄ではいかないものなのだ」 と。



検索魔になる日々

妊娠に関する専門用語はほとんどわからなかった私。

「稽留流産かもしれない」と言われても、無事に出産した人はいないか…と、とにかく赤ちゃんが育ってくれることを信じたくて、暇さえあればネットを検索していました。

妊娠や流産に関する体験談や情報を片っ端から読み、少しでも安心できるものを探していたのです。

胎芽が見えたのに…

二週間後の2回目の診察で、胎嚢と胎芽も確認できました

「よかった…」

しかし、心拍はまだ確認できません。妊娠週数は約7週でした。

先生によると、週数に比べて成長が遅めで心拍も確認できないことから、稽留流産の可能性が高いとのこと。
またマイナスなことを言われてしまいました。
(後から分かりますが、実際にはその後も赤ちゃんは少しずつ大きくなっていました。)

つわりもありました。
症状は、胸の張りや強い眠気、常に乗り物酔いのような状態、すぐに疲れるなど。
ただ、この診察のあたりでは症状が落ち着き、胸の張りや吐き気も少し和らいでいました。

ネットで読んだ体験談では、心拍が確認できたのは8~9週というケースもありました。
そのため、私は心の中で「私の赤ちゃんだってきっとまだ生きている!」と信じていました。

稽留流産と診断されてから5日目の心境の変化

胸が張っていない…。

不安になったと同時に、私は少し現実を考えるようにもなりました。

• 「赤ちゃんは本当にもう生きていないのかもしれない」
• 「この子は自然や運動がきっと好きな子だろう」
• 「それならまだお腹にいる間に、思い出作りとしてこの子と一緒に山を登りたい。」

流産が本当であれば、近々赤ちゃんは私のお腹から出てくる。
ただ、それがいつかはわからない。

「でももしかしたらまだ生きているかもしれない。」という気持ちが揺れ動く中、こうして徐々に、私は診断結果を受け入れ始めていました。

体と心をつなぐ登山

翌日、パートナーと登山へ。私は赤ちゃんのことは特に話さず、ただなるべく楽な山を希望しました。彼もわかってくれていると思っていたからです。

ところが、最悪なことに、登った山はここ最近で一番きつい山になってしまいました。
普通であれば、ここで登山を断るものでしょう。
しかし私は安易でした。いけると思ってしまったのです。
結果、蒸し暑い中で4時間半も歩くことに…。
しかも、なかなかきつい傾斜。虫も寄ってくるし、ふり払うだけでも地味に体力を使います。
どうしてよりによってこんな時にこんな山になってしまったのか…と繰り返し思いました。

そもそも、原因は彼の下調べの勘違いや、私の希望の伝え方が曖昧だったこと。
私が「1時間以内で往復できる山」と彼に希望を明確に伝えていれば、こんなことにはならなかったかもしれません。もしくは、行かないか。

登り始めは、「きつかったら下山すればいい」と思っていましたが、体力もあり、ストックも使っていたので、それほど疲労を感じることなく、ゆっくりならなんとかなるだろうと考えてしまいました。
そして下山後はひどい筋肉痛に見舞われましたが、この時点では体調に大きな変化はありませんでした。



進行流産へ

さらに2日後、彼にとっては3連休の最終日。私たちはこの日も登山に出かけることになりました。私と彼のデート先といえば、登山だったからです。
近場の低山で1時間半ほどのコース。ちょっときつめのハイキングコースのような、ハードルの低いものでした。
体調の変化は特になかったので、「それくらいのコースならもっと問題ないでしょ。」と考えました。
蒸し暑いですが木陰も多く、そんなに疲れを感じない。
彼と赤ちゃんと3人で山の美味しい空気を楽しめている感じがして、むしろ楽しかったです。

「心拍がなくても私のお腹の中にまだいてくれてるんだね」
「一緒にお山に登りたかったんだね」
「お空にいっちゃう前に、一緒に思い出つくろうね」

そうして登山は無事に終わったものの、その日の夕方に突然茶おりが出てきたのです。

嫌な予感がしました。

先生からは「生理のような出血があったらすぐに受診してください」と言われていました。
この時点ではそこまでの出血ではありませんでした。

翌日になると、茶おりの量が増え、ナプキンにべったりと付くほどにはっきりと確認できるようになりました。

「とうとうこの時が来てしまったのか…」

茶おりが出て3日目には、茶おりがピンク色に変化。
私はすぐに病院へ電話をし、向かいました。

赤ちゃんはまだ生きていた

エコーをしてもらうと、なんと赤ちゃんが前回より少し成長していることがわかりました。
前回の診察では「心拍が止まっている」と言われ、稽留流産と診断されていたにも関わらず…。

やはり、赤ちゃんは生きてる!って感じたあの時、赤ちゃんは生きていたのです。
(実際、その間に3日ほど妊娠症状が復活したこともありました。)

「どうしてあんな診断を…」

なぜ生きているのに稽留流産と診断されたのか?
もしその診断がなければ、「最後の思い出に登山を」とは考えなかったかもしれません。
もっと慎重になっていたかもしれません。

もちろん、登山が流産の原因だったと断定することもできません。
真実は誰にもわからない、神のみぞ知る領域だと思います。

それに、おそらく先生としては、「たとえ一時的に心拍が確認できても、成長がゆっくりでいずれ流産になってしまうだろう」という見立てから、稽留流産と判断されたのかもしれません。

だからと言って、まだ生きている命なのに、そう診断されてしまうのは納得できませんでした。
どうしてもっと前向きに接してくれなかったのだろう、と悔しかったです。

医師からの説明

この時、いつもの主治医ではなく別の先生の診察でした。
そのため、詳しい意図を確認することはできませんでしたが、

「もう成長は止まっているので、出血も始まっているし、そろそろ流れてくると思います」

といった説明を受けて帰宅したのを覚えています。



完全流産となる。

翌日(茶おりが出始めて4日目)。

早朝から鈍い腹痛があり、目が覚めました。すでに本格的な出血も始まっていました。
7時半になり彼のお弁当を作っている最中、ドロッと大きな塊がナプキンに出たのがわかりました。
「彼を見送ったら、ゆっくりトイレでナプキンを替えよう」と思っていました。

8時。彼が出かけてすぐにトイレへ行くと…
なんとそこには大きなレバーのような塊と、黄色がかった透明の袋のようなものがありました。

「もしかしてこれが胎嚢?この中に赤ちゃんがいるの…?」

検索魔になっていた私は、それが胎嚢であるとすぐにわかりました。

涙と温かい気持ち

私は声をあげて泣きました。
寂しさと後悔で胸がいっぱいになりました。
涙はずっと止まりません。

でも、赤ちゃんが「彼と私の3人でいる時」に出てきてくれたことが、せめてもの救いでした。

「みんなが揃っているときに出てきてくれたんだね…」

そう思うと、心が少し温かくなり、赤ちゃんの気持ちが感じれたような気がして、愛おしさでいっぱいになりました。

「守ってあげれなくて、本当にごめんね…」

病院での診察

私は赤ちゃんのいるナプキンを写真に収めたり一緒に撮ったりした後、病院に電話して事情を伝え、赤ちゃんのいるナプキンを持って、泣きはらした顔のまま向かいました。

赤ちゃんが出てきてからは、腹痛も全くなくなっていました。

この日の診察はまた主治医ではなく、先日とはまた別の若めの外科医の先生。
その先生は、悲しみに沈む私にとても寄り添ってくれました。

赤ちゃんの成長が遅かったことについても、
「そんなに遅れていたわけではありませんよ」と優しく言ってくださり、質問にも丁寧に答えてくれました。

そのおかげで、少しずつ納得していくことができました。

私は収縮剤による処置は選ばず、自然に排出が終わる方法を選択しました。



流産後の体験と気持ちの整理

流産の日は、私の赤ちゃんにとっての「命日」であり「誕生日」でもありました。
それは 2024年8月1日 のことです。

流産後の出血はそこまで多くはありませんでしたが、ダラダラと続く感じで、完全に止まるまで10日ほどかかりました。

そして、流産からちょうど30日後に生理がきました。
「次の生理はいつ来るんだろう…」という不安が大きかったので、周期ぴったりで来てくれたことに本当に驚き、自分の身体に感謝の気持ちが湧きました。そして、亡くなった赤ちゃんにも

赤ちゃんへの感謝と供養

「あの子が綺麗に、おとなしく去ってくれたことにも感謝したい。」

そう思うと同時に、私は自分を責め続けました。

• 「親想いのなんていい子だったんだろう」
• 「そんな子に無茶をさせてしまった」
• 「私の安易な考えで流産してしまったのでは…」

何度も何度も後悔しました。自分を責めました。
でも最後には、やっぱり赤ちゃんへの感謝が残りました。

「私のところに来てくれてありがとう。また会おうね。もっとちゃんとした母親になれるようにするからね。」

次に来てくれる個体は別だとしても魂はこの子のまま、と信じました。

病院の帰りや翌日には、供養のつもりで妊娠中に赤ちゃんと一緒に行った公園やお散歩コースを歩きました。
夏の青々とした自然と空の美しさが、心に強く残っています。

週末にはパートナーと二人でそれぞれのご先祖様のお墓を訪ね、エコー写真を見てもらいました。

しばらくは、何をするにも涙が出ていましたが、それも大切な時間でした。

自分を責める気持ちと少しずつの回復

「登山が良くなかったんじゃないか」
「もっと水分をとっていれば」
「稽留流産と診断されなければ」

いろいろなことを考えて自分を責めました。

けれども、12週までの流産は母体側の問題ではないことが多いと聞きます。
でもこれって、現代社会の母親に配慮した言葉がけなのではないかとも思ってしまいませんか?
私の場合は登山をしていたこともあり、どうしても自分のせいだと思ってしいます。

それでも一週間ほど経つと、少しずつ現実を受け止められるようになり、
「仕方のなかったことだったのかもしれない」とも考えられるようになりました。

流産の原因は誰にもわからない。
そう思えるようになったとき、気持ちは少しずつ楽になっていきました。

「また会おうね。」

次の妊娠を願って

その後の生理は 27日周期で安定していました。
「またすぐ妊娠できるかな」と期待していましたが、3回目の生理がきたときには、
「妊娠って、そう簡単に成立するものじゃないんだな…」と少し残念に感じました。

でも諦めたくはない。
次の妊娠に向けて、新たにたんぽぽ茶を飲み始めたり、食生活にも以前以上に気をつけたりしていました。
しかし生理はきました。
流産後3回目の生理を迎えたときには、
「気長に考えよう。少しは自由に食べて過ごそう」とのんびり構えられるようになりました。

そうして日々を過ごしていたところ…

流産から4回目の生理予定日が、遅れていることに気づいたのです。

次回へ続く。【私の妊娠記録②】1回連続流産を経てーー希望と不安のなか迎えた2度目の流産



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