外食って、ご褒美ですか?
それとも、ただの”いつもの延長”ですか?
私は長い間、外食ばかりの暮らしをしていました。
最初のきっかけは、”キッチンを汚したくなかったから”。
専門学校時代、私は学校と提携するアルバイト先の寮に住んでいました。
布団を敷いたら部屋が埋まるほどのワンルーム。
キッチンは、おままごとの延長のような簡素なもので、
そんな場所でごはんを作る気になれなかったんです。
(それでも、ちゃんと自炊していた子もいたけれど)
その後、学校を辞めて心斎橋の古い広いマンションに引っ越しました。
立地は最高。でも、エレベーターにはケチャップのような跡、
虫の出没、独特な匂い…。
”家でごはんを食べる”こと自体が、なんとなく気持ち悪く感じてしまって。
だから私は、ホットペッパーで毎日お店を探し、3食すべて外食していました。
行ってみたいお店がつきず、毎日毎日お店選びが楽しくてたまらなかったです。
そして少しずつお金を貯めて、次に引っ越したのは新築の分譲賃貸マンション。
きれいなキッチンがそこにはありました。
私はやっぱり、キッチンを汚したくなかった。
周囲には飲食店がたくさん。
更に15分も歩けば、心斎橋のど真ん中。
堂島ロールや心斎橋ロール、当時は〇〇ロールが流行っていて、
スイーツも日々食べ比べをして楽しんでいました。
当時は、自分が「外食をしている」とすらあまり意識していません。
家には寝に帰るだけで、日中は友達とお茶やランチ、
夜は仕事で同伴などもあり、自炊とは無縁の生活。
ベトナム料理、ブラジル料理、うどん、寿司、てっちり、カレー、トンカツ、焼肉にステーキ…
今思えば、けっこういいものを食べていたと思います。
でも、若かった私は「味」にあまり興味がなくて、
ただ“食べられればいい”と思っていました。
そして、東京に引っ越してから。
東京では大阪の生活とはうって変わり、
仕事中心の毎日の中で外食のスタイルも変わっていきました。
ラーメン巡りやオシャレなカフェ、
たまたま見つけたパン屋でのパン選び、豆腐ドーナツにハマったり…。
派手ではないけど、東京ならではの“選び放題”な楽しさ。
それもそのはず――
東京は、どこを見ても飲食店だらけなんです。
大阪では「キタ・ミナミ=ど真ん中」だったけれど、
東京にはその“ど真ん中”がいくつもある。
新宿、渋谷、表参道、青山、池袋、東京駅周辺…
私が住んでいた中野区だって、探せば美味しいお店が山ほどあった。
東京で1年も暮らせば、そんな飲食店に囲まれた光景も“普通”になる。
わざわざ外に出かけなくても、望むものは向こうからやってくる。
“自分から取りに行かなくても手に入る”――そんな感覚でした。
そんな都会生活のある日、
久しぶりに実家に帰ることになりました。
父が「せっかくだから、どこか食べに行こう」と言ってくれたとき――
私は、自分でも驚くほど、心が動かなかったんです。
「もう、外食には飽きた」
どこかで聞いたような味、似たような盛り付け、安心する定番メニュー。
美味しいものは、確かに美味しい。だけど、食べてもすぐに忘れてしまう。
どんなに贅沢なものを食べても、結局思い出せる味なんて、ほんの一部。
気づけば、「美味しい」の基準すら、曖昧になっていく。
飽きるまで外食して初めて、「満足感」と「記憶に残る味」は別物だと気づきました。
だからこそ、実家で食べた母の素朴な手料理こそ、
当時の私には”特別なもの”になっていました。
どこかで聞いたような味、似たような盛り付け、安心する定番メニュー。
美味しいものは、確かに美味しい。だけど、食べてもすぐに忘れてしまう。
どれもだいたい味の想像がつくし、割高だ。
ただし、私は外食を否定はしていません。
立派な事業ですから。
むしろ、一度は外食にどっぷり浸かるべきだと思うのです。
外の世界には、キラキラして見えるものがたくさんある。
でも、それが本当に“価値のあるもの”なのかは、体験しなきゃわからない。
だから、食べに食べて、飽きるまでやればいい。
「もういいや」と思うまで、外食しまくればいい。
そうしてようやく、「あれ?なんでこんなものに時間もお金も使ってきたんだろう?」
って冷静に見える瞬間がくる。
美味しいものを追いかけ続けても、終わりはない。
でも、一度それをやり切った人間にしか見えない景色も、確かにある。
そしてふと立ち止まったとき、
思いがけない“普通のごはん”が、いちばん美味しく感じる日が来る。